なにが羨ましいのか?ワセダ三畳青春記
友達に進められた「ワセダ三畳青春記」を読了。
ボロアパートの三畳間で過ごした無茶で明るい貧乏生活を綴った作品。
とにかく面白い!のですが
その前に意外にも強く湧き上がってきたのが「私とは違う」という感情。
「貧乏だから違う」のではないです。
ドラッグもどきを飲みすぎて世界の感じ方がかわった数日間を面白いと感じてたんたんと自分を観察してしまうところ、
何もやることがない状況で毎日プールに行ってしまうところ、
将来に不安を感じて就職しながらも予定外の仕事を任されそうになるとさらっとやめてしまうところ、
そんな人生への取り組み方が自分とは全く違う、という何かじりりとした気持ち。
私はこうは生きられません。
単に「楽しそうな暮らしでいいな」というのでもないです。
昔だったら「あー面白い。おばかだなぁ」で終わってたところ。
今は「こういう生き方の人もいる。でも私にはこの生き方はできないし、この生き方をしても嬉しいとは感じない」ということがわかっています。
学生時代、就職してからと、自分と似た境遇と考え方の人達との交わりがほとんど。
それが子どもが生まれてからは様々な世界と関わる機会が生まれました。
「子供」という接点からじわじわとネットワークがつながり
自分とは考え方も感じ方も本当に違う人がいることを
実際に体感し、頭でも認識できるようになりました。
人生の楽しさや幸せのバロメータは、画一的ではないです。
だから「自分が大事にするもの、何を求め、どう生きたいのか」を
考えるようになったし、ある程度は理解しています。
じゃあなぜじりりとするのか。
「こういう風に生きても人生って成立する」
「このように生きることをためらわない考え方ができる」
というところに、自分の良くも悪くもマジメな部分が
ウラヤマシイ反応をしてしまうのでしょう。
全く同じ生き方は難しいけど、
うん、明日はちょっといつもと違うやり方を試してみよう。